宝鑑

第Ⅵ章:時間;2

2.数字こそが、事実を最も精確に表現する記号、そして真実の究明と現実の把握こそが、学徳の道。

2:1.激務や多忙に利害関係や多難等に直面し続けること、確かにこれらは物(すご)く苦しい諸事である。だが、最も崇高でありながらも危険な辛苦は、孤高な滞り。「本質的」とは即ち「虚無的」である。

2:2.辛勤し続けて、向学心や道徳心を創り、精勤し続けて、忍耐や技能を行い、忠勤し続けて、修身や愛他を遂げ、忘我に成って滅私奉公を、没我に成って勤労奉仕を、無我に成って率先垂範せよ。

2:3.誠に愛を愛する、これこそが、愛を愛たらしめる道。そしてそうすれば、決してあれにもそれにもこれにも愛されなくても、愛は続き、そして我は愛し続ける愛に成る。全く以て、道は切ない。

2:4.数的な評価ではなく人的な峻別(しゅん)を、量的な所有ではなく質的な向上を、私的な提言ではなく知的な教導を、技術的な新規ではなく心理的な配慮を、成せ。不可能ではなく不可能にしているのだ。

2:5.「まだか?」と外界ではなく自身の決断力に問え。「もう!?」というのは至らなさの驚倒だ。「またかよ!!!」というのは断行しない熟慮の嘆き。「まだまだだ」と仰いでは、謙って、学べ。

2:6.発奮は失敗の始まり以前の始まり、奨励の先には嘲笑いや全否定に拒絶や無関心だらけ。自律した勤勉家は自決しては決行した玄人、自敬する努力家は数多の徒労を経験しつつも学んだ苦労人。

2:7.もう教えるな、頭は在っても心は無いのだから。もう知らせるな、潔く去って美しく棄てるのだ。勧めるのではなく自ら理解し、奨めるのではなく自ら体現し、薦めるのではなく垂範し、勇め。

2:8.不可能な可能性は、潜在しては常在しており、可能な不可能は、自由意志である。実現できなくとも体現することは出来、成立しなくても成功する。だから、義に務め続け、仁に向かい続けよ。

2:9.知から出発してはそれを実践しつつ体得し、徳を来訪してはそれに従事しつつ師事する、これこそが「出来る」である。「可」は(アッラー)の既定、「能」は定律の確定、「性」は宿命の従者と暦数の実。

2:10.飽き性が、惰気満満の故か、それとも、意欲的な上に進歩的である故か、もしくは、知的な無関心か、これが転機の内容を決定し、時の流れがその行く末を確定する。道義的な選定を成せ。

2:11.誠に確りと学ぶのだ、根本的で最終的な本当の起点にして基点を自ら自身を。宜しく深く知るのだ、万物と万事を定めては万の自然法則を律して一筋を(たも)つ定律を。そして道を以て道を行え。

2:12.涙を軽々しく見せること(なか)れ。だが涙を誠に流すのだ。そして涙を美しく流せ。悲嘆や落涙に号泣や慟哭(どうこく)を、弱さとするのは浅知の評価であり、これらが実は強さの証である故は徳性滋養だ。

2:13.愚弄され続ける愚者達に愚弄され続けるのは、至極当然。問題は、いつの間にか自分自身も愚者と成ってしまうことだ。聡明は賢愚を明弁し、賢明は賢愚を超克し、賢哲は道に就いて学ぶ。

2:14.忘れさせるという正しさ、忘れられるという寂しさ、決して忘れないという苦しみ、忘れようとしないという難しさ。正解を正して、寂を美へと、苦を学へと、難しさを強さへと、変えよ。

2:15.怒りが正しき厳しさと善き優しさの故であれば、それもまた善美である。だがどうであれば、それは始終のどちらかに過ぎない。その事後とその続きこそが大事。悲憤慷慨から心定理得を成せ。

2:16.「本当に少しずつしかしない」と「本当に少しずつしか出来ない」は似て非なる。誠に意志堅固であり続けては、確りと博学審問し続けて、常に新たに深造自得し続け、そして初志貫徹せよ。

2:17.貪(らん)や邪悪の故に、或いは、義憤や洞察の故に、他者や自身の死を望んだり、破滅や滅亡等を望んだりするのは、一理ある。理解力とは、定理を正しく知って、条理に適うように挑む実行力。

2:18.正しく厳選しては、確りと精選して、善く特選し、そして秘かに予選せよ。(いつ)()い上に(いつ)()いながらも(いつ)()くもあるからこそ、本当に(ひろ)げられ、大いに(ゆる)められる、そして(くつ)ろぐ事が出来る。

2:19.生きる原因は本能とその強制力の影響力であり、生きる理由は意識とその知力の威力であり、生きる根拠は力への意欲とその強勢とそれが成す創発であり、生きる意味自体は無意味そして情味。

2:20.「崇高な義務を熱誠に喜び楽しむ」、これが主体性の妙味であり、「自己実現」、これが主体性の極意であり、「生涯学習」、これが主体性の奥義であり、「初志貫徹」、これが主体性の神髄である。


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