弊店

『弊店』「第Ⅰ章 」(始まりは修徳で、それからようやく厳選に精選。)〔Ⅶ:Ⅰ-Ⅳ〕

Ⅶ:Ⅰ;愛人)「新しい資本主義」について再思しては、抜本的な再出発を決行して、再構を遂げよ。

 「三宝」は実は「三毒」である。現実において、仏は()、法は(しん)、僧は貪である。仏に実像は無くて虚像ばかりであり、仏に関する虚飾された口伝と史実なき伝記ばかりがある。法に実践躬行(きゅう)が無くて大言壮語ばかりであり、法談は余談ばかりで、法話も無駄話ばかりだ。「修行」と称し称される「乞食」を行う上に、「ありがたやありがたや」等と人々に尊重されては礼拝され、「不浄な生物」や「修行が無効になる」等であるとして、女性の生理と性的魅力を理解せずに、自力で自身の性欲を克服しなければならないことを棚上げにして、女性と接触はおろか接近もしない、高尚ぶった(ごう)岸無礼で汚劣な無学、煩悩の化身、それが「僧」である。もし女性の方が圧倒的大多数である上に、男性よりも強く、そして尼達が「陰茎と精巣に精子とその生理現象は不浄で(けが)れだ。男性は不浄で穢れ、接触はおろか接近すれば、修行は無効に成る。」と一方的に決め付けて、社会に文化がこれを容認するのを、どう思う?このように、宝であるとされる事物や物事は、実は毒であるということは甚だ多い。「篤く三宝を敬え」ではなく「篤く敬う三宝」であってこそ、三宝は通宝に成る。仏は良心に良識、共感に理解、慈悲喜捨の極致と貫徹であり、法は大自然の摂理の虚無的かつ利他的な解明及び解釈であり、僧は、四諦を決行しては、三十七道品を実行して、成仏を遂行し、そして仏性を完成しては、仏心を護持して、仏法を深造自得しながら仏道を実践躬行しつつ、生き仏に成る道の始まりである。(めい)想に寄進や布施等にも御持て成しやホスピタリティがあるように。

 生産の三つ要素は「土地・労働・資本」。まず何よりも、生産という原点へと回帰して生産教育を促進せよ。次に、環境問題を本当に学び知り、本物の環境運動を真()に実現し、環境教育を促進し、そして環境倫理を実践躬行せよ。そして、資本を目標や手段として、労働者を人として尊重し、労働力を生命力として敬重し、労働三権から経営三宝即ち温慈恵和・()(はん)寂静・円相を体現せよ。


Ⅶ:Ⅱ;用物)「新しい資本主義」について再考しては、徹底的な再出発を決行して、再生を遂げよ。

 私生活を疎かにして職業生活に走り続ける、これこそが「不仁」であり、家庭生活を疎かにして社会生活に走り続ける、これこそが「不義」であり、社会生活を全面的に否定しては徹底的に拒絶して学究生活に入り浸り続ける、これこそが「不礼」であり、家庭問題を放置して政治運動に献身し続ける、これこそが「不智」であり、本当の親近者達の教育には注力せずに教育運動に献身し続ける、これこそが「不信」である。決して公徳ではなく、まずは私徳を学習せよ。修身しつつ家政に参政するのだ、修身こそが政治の原点にして拠点であり、そして、家政こそが政治の起点にして基点であるからだ。全く以て、博愛主義的な世界主義は愛国主義的な国家主義に遥か及ばず、愛国主義的な国家主義は人道主義的な地域主義に遥か及ばず、人道主義的な地域主義は利他主義的な家族主義に遥か及ばず、利他主義的な家族主義は、合理的で合目的的、道徳的で倫理的、そして社会的で主体的な個人主義を育み成す。この個人主義こそが、家族主義をより一層利他的に、地域主義をより一層人道的に、国家主義をより一層愛国的に、世界主義をより一層倫理的そして美的にする。私徳と職業倫理を兼備するという「仁」、家族団(らん)と社会貢献を両立するという「義」、実学と虚学を兼学するという「礼」、家政を完遂して国政に寄与するという「智」、正実な優先順位を確立しては正しく取捨選択して善く達成するという「信」、この五徳を以て「個物」という自分自身を成せ。

 貨幣も資本も市場も、営利も競争も格差も、資本家も企業家も政治家も、組織も社会も国家も、そして文化も、全て、社会悪の要因ではあるが、それら自体は最初から悪である訳ではない。悪の真因は天命であり、その偶因は大自然の摂理であり、その原因は欲求であり、その素因は自己保存であり、その主因は闘争本能であり、その遠因は利己的な遺伝子であり、その近因は感情的である上に不合理な意識であり、その要因は意図的な無知であり、その誘因は利己的な群居本能と排他的な社会性であり、その成因は長く続く環境の悪影響である。内向的に進学しつつ主体的に向学せよ。


Ⅶ:Ⅲ;理財)「新しい資本主義」を以て再起しては、建設的な再認識を決行して、再興に貢献せよ。

 法理(ダルマ)に因って誕生しては、法則(ダルマ)に由って成長して、法力(ダルマ)に依って完成し、そして、法力(ダルマ)に拠って確保し、やがて法則(ダルマ)に由って老衰し、そして最終的には法理(ダルマ)に因って死去する。こう言うではないか、「一期一会」そして「一瞬一瞬は永遠」と。有限である上に「減少」という一方しかない「時間」を正しく再認識しては、誠に大切にして、善く用い、そして健康的にも成るように努めるのだ。

 「健常である上に強健である身体」という「基礎」である財産(アルタ)と、「正常である上に明晰である脳」という「基盤」である財産(アルタ)、この二つこそが本当に重要な有形の財産(アルタ)であり、「根本的に正常である上に進歩的に異常である心理」という「基調」である財産(アルタ)と「現実的で即物的でありつつも理想的で創造的そして情熱的かつ理知的な精神」という「基本」である財産(アルタ)、この二つこそが本当に重要な無形の財産(アルタ)であり、「健康作りと自学自習の時間」という「基底」である無形かつ有形の財産(アルタ)、これこそが、前述した四つの財産(アルタ)の存続を為し、「有徳な人格とその生涯学習」という「基軸」である、有形を完成する無形と無形を補完する有形の財産(アルタ)である上に、前述した五つの財産(アルタ)の存続を成し遂げる財産(アルタ)であり、そして財産(アルタ)を生み出す根本的で創造的な遺産と成る財産(アルタ)である。全く以て、これこそが、本当に、確かに最小だが最大・確かに最低だが実に最高・確かに最弱だが最強・最古かつ最新・やはり最適ではないがそれでも最上・確かに最少である上に最下で決して最多ではないが最善の財産(アルタ)である。法理(ダルマ)を窮めては、法則(ダルマ)を究めて、法力(ダルマ)を得、そして法治(ダルマ)を以て財産(アルタ)を創造するのだ。「仁者は財産を以て自身を啓発し、不仁なる者は自身を以て財力を発掘する。」だ。

 結局のところ、高度で深奥な効用は、情愛(カーマ)から生まれては、情愛(カーマ)と進展して、情愛(カーマ)に因って完成し、そして情愛(カーマ)を以て長続きするものだ。情愛(カーマ)と共に尽善尽美して、利他的な自己満足を完遂せよ。

 天から授かった諸々を畏れつつ頂戴しながら、それらを破壊的に開発する難行が、学徳の解脱(モクシャ)だ。


Ⅶ:Ⅳ;自知)「新しい資本主義」を以て再認しては、現実的な再認識を決行して、再会に貢献せよ。

 素直で慈悲深い仲裁人は恵まれることであろう、民徳に民力を。故に、敵を愛しては、敵を赦して、敵を救い、そして敵を友へと変える将軍とその勝利に元首とその外交こそが、また、戦功を誇らずにより一層謙虚でいる上に、戦犯として猛省と悔悟する将軍とその尽力に、政績を誇らずにより一層謙虚でいる上に、不徳の致した所々を自覚しては自省する元首とその尽力こそが、将軍の中の将軍とその勝利に戦功であり、そして、元首の中の元首とその栄誉と政績である。経営士はこのような将軍を、経営者はこのような元首を、誠に確りと見習うべきである。他人ではなく己を裁け。

 公共の場で礼拝を行う者達は偽善者達である、というような古の遺訓があるが、社員達に社訓を読み上げるようにしたり、社是を社会に見せびらかしたり、法令遵守や企業統治の実現を強調したり、企業の社会的責任や共有価値の創造への取り組みを喧伝したりするなども、偽善であること甚だしい。自室へと行っては、扉を閉めて独りで礼拝を行え、というような古の遺訓があるが、慎独しては、静観して、止観し、そして、省察と復習を行ってこそ、誠に徳と善美を修学しているのだ。

 人の失敗や過失の批判に走ること(なか)れ、己の失敗や過失について反省せよ。己の成功や功績を語り続けること勿れ、人の成功や功績をもっと多く深く学び続けよ。人を赦し、己を正し、志を保て。

 確りと正しく納税しては、政治から適切な距離を置きつつも善く参政して、社会悪と人々の罪過を赦しつつ、自身を厳しく教導して、親近者達を寛仁かつ厳正を以て指導し、そして合憲・合憲・適法と理義・相愛・学徳を成し遂げ続けよ。純愛は、善く美しく、厳しく優しく、独立かつ連携だ。

 最初にして最大そして最後の隣人愛は、真新しい善美なる己自身の創造と確立そしてその者へと転化であり、そして最高にして最善の隣人愛は、自分自身の心と人々の心の距離を近隣にする相愛である。「愛・希望・平和・堪忍・親切・善・信仰・素直・節制」、これらが精神の結実であるという遺訓があるが、実に奥深い教訓である。さあ「貴方の隣人を貴方自身を愛するように愛せよ」!


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